第4回バッハの修正版楽譜と謎のフェルマータ
要約
■バッハ自筆の修正はおおよそ4つのカテゴリーに分類される。
■シュミート版では各変奏曲の末尾に不規則にフェルマータ記号が付加され
ている。この付加位置についてバッハは修正をしていない。
■シュミート版以外の新バッハ全集版、ウィーン原典版、ヘンレ新版はこの
フェルマータ記号を大幅に追加し、ほぼ全ての変奏曲に付加している。
■しかし、オリジナルのシュミート版で見られる不規則なフェルマータの配
置には重大な意味が隠されているとする論文が発表されている。
■その要旨は、フェルマータで区切られた変奏曲は一つのグループを形成し
ており、グループ内の変奏曲は、テンポについて強い関連性があり、休ま
ずに演奏する必要がある、としている。
(1)シュミート修正版の内容について
さて、初版の印刷譜シュミート版にバッハがどのような修正を加えたのか。これについては、ヴォルフの論文、「The Handexemplar of the Goldberg Variations」を参考にしながら、説明していこう。
修正はバッハの手書きで、そのほとんどは赤で作成されている。具体的には
1 楽譜の修正。誤植、脱落を修正し、さらに臨時記号を付け加えた。
2 アーティキュレーション記号の追加。多数のスラーとスタッカートを追加
した。
3 装飾音記号 (トリル、モルデント、アッポジャトゥーラ、スラー)の追加
4 速度標語の追加。
第 25 変奏曲の前に「adagio」、第 7 変奏曲の前に「al Tempo di Giga」
という表示を付け加えた。【譜例1】参照。
後者の場合、この変奏曲がジーグまたはシチリアーノのどちらの解釈も
可能であることにバッハは気が付いたのだろう。
従って、彼はジーグのより速いテンポを規定することによって問題の解決
を図った。
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【譜例1】第7変奏、左下に赤でバッハが追加した表示が見える |
これらの変更点については、個々の変奏曲を解説する際に取り上げることにして、ここではバッハが修正しなかった、謎のフェルマータについて取り上げよう。
(2)各変奏曲の末尾に付加されているフェルマータについて
さて、オリジナルのシュミート版を見ると、各変奏曲の末尾にフェルマータを付加しているものと付加していないものがある。
具体的には例えばシュミート版第1変奏の末尾にはフェルマータが付いている。(譜例2参照)
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【譜例2】シュミート版第1変奏 |
更に、同版でフェルマータのない第3変奏曲の末尾には、渦巻き模様のマークを付与している。(譜例3)
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【譜例3】シュミート版第3変奏 |
しかし新バッハ全集版第3変奏末尾にはフェルマータがついている。
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【譜例4】新バッハ全集第3変奏 |
このようにテキストごとにフェルマータが付加されている変奏曲は異なる。これをテキスト別にどう付加されているか、整理したのが下記の表である。
変奏曲番号 | Aria 1 2 3 4 5 | 6 7 8 9 10 | 11 12 13 14 15 |
オリジナル版 | 𝄐 𝄐 𝄐 | 𝄐 𝄐 | 𝄐 𝄐 𝄐 𝄐 |
1975年修正版 | 𝄐 𝄐 𝄐 | 𝄐 𝄐 | 𝄐 𝄐 𝄐 𝄐 |
ヘンレ旧版 | 𝄐 𝄐 𝄐 | 𝄐 𝄐 | 𝄐 𝄐 𝄐 |
ヘンレ新版 | 𝄐 𝄐 𝄐 𝄐 𝄐 𝄐 | 𝄐 𝄐 𝄐 𝄐 | 𝄐 𝄐 𝄐 𝄐 𝄐 |
新バッハ全集 | 𝄐 𝄐 𝄐 𝄐 𝄐 𝄐 | 𝄐 𝄐 𝄐 𝄐 𝄐 | 𝄐 𝄐 𝄐 𝄐 𝄐 |
ウィーン原典版 | 𝄐 𝄐 𝄐 𝄐 𝄐 𝄐 | 𝄐 𝄐 𝄐 𝄐 𝄐 | 𝄐 𝄐 𝄐 𝄐 𝄐 |
変奏曲番号 | 16 17 18 19 20 | 21 22 23 24 25 | 26 27 28 29 30 Aria |
オリジナル版 | 𝄐 𝄐 𝄐 𝄐 | 𝄐 𝄐 | 𝄐 𝄐 𝄐 𝄐 𝄐 |
1975年修正版 | 𝄐 𝄐 𝄐 𝄐 | 𝄐 𝄐 | 𝄐 𝄐 𝄐 𝄐 𝄐 |
ヘンレ旧版 | 𝄐 𝄐 𝄐 | 𝄐 𝄐 | 𝄐 𝄐 𝄐 𝄐 𝄐 |
ヘンレ新版 | 𝄐 𝄐 𝄐 𝄐 𝄐 | 𝄐 𝄐 𝄐 𝄐 𝄐 | 𝄐 𝄐 𝄐 𝄐 𝄐 𝄐 |
新バッハ全集 | 𝄐 𝄐 𝄐 𝄐 𝄐 | 𝄐 𝄐 𝄐 𝄐 𝄐 | 𝄐 𝄐 𝄐 𝄐 𝄐 𝄐 |
ウィーン原典版 | 𝄐 𝄐 𝄐 𝄐 𝄐 | 𝄐 𝄐 𝄐 𝄐 𝄐 | 𝄐 𝄐 𝄐 𝄐 𝄐 𝄐 |
この表を整理すると、
(a)オリジナル版と1975年修正版を比較すると、フェルマータの付加位置は
同じである。従ってバッハは修正を行なっていない。
(b)ヘンレ旧版では、第13変奏と第19変奏にフェルマータが付加されていな
い以外は、オリジナル版と同じである。
(c)ヘンレ新版では、第6変奏末尾にだけ付加していない以外は、新バッハ
全集、ウィーン原典版と同様、オリジナル版についていないフェルマー
タを全ての変奏末尾に付与している。
(d)ヘンレ旧版と新版の、他の版とは異なるフェルマータの位置について、
この理由については注釈等で一切説明がない。ひょっとして単なるミス
の可能性がある。
(e)一方、校訂報告のあるウィーン原典版はオリジナル版との違いをどう説
明しているのか。(ウィーン原典版日本語版p 58〜60)
→1 第2、3、4、16、21各変奏末尾にオリジナルには無いフェルマー
タを付けた事について、説明は何もない。
→2 第6、7、9、11、23、25、27変奏については「フェルマータは
補足された。Fermatas added editorially.」とのみ記載がある。
この新バッハ全集以降のテキストのフェルマータ付加に対する基本的考え方はこれ以上具体的説明がないものの、明白だ。
それは、本来この作品は、全ての変奏曲末尾にフェルマータがあるべきだが、バッハはそれを失念した、あるいはオリジナル版の印刷原盤を彫塑する段階でフェルマータを付加するのを失念したため、新版を出版する際に校訂して補足をしておいた、という事であろう。つまりバッハのミス、あるいは印刷原盤のミスを校訂者が訂正、追加したというわけだ。
バッハの時代、フェルマータは音を伸ばすだけではなく,「楽句、楽節、または作品全体の終わりを示すため」(ニューグローブ世界音楽大事典第14巻P.534)の役割があったとすれば、全ての変奏曲の末尾にフェルマータを付加するのはあながち間違いではない、と言えるのかもしれない。
これに対して、当然、オリジナル版の不規則なフェルマータの位置を重要視する立場の研究者がいる。1975年修正版でも、このフェルマータについては全く修正されていないことから、これには意味がある、と考えるのは当然だ。それを紹介しよう。
(3)ゴルトベルク変奏曲でのフェルマータの意味〜2つの研究について
(a)ドン・O・フランクリン氏の説
小林道夫氏が「音楽と数学」と題したエッセイ(おそらく氏のゴルドベルク変奏曲演奏会でのプログラムノートと思われる。)の中で紹介していた2002年にドルトムントで開かれたバッハ・シンポジウムで発表された、チェンバリストでもある学者ドン・O・フランクリン氏の説がある。
小林氏のエッセイでは、「主題や、各々の変奏の終りの複縦線の上に𝄐というマーク(フェルマータ:音を伸ばしたり、時には終止点を示す。)があるものと無いものが一見不規則に並んでいることを解読して、そこからも数の仕掛けを説明していますが、説明が長くなり過ぎて残念乍ら触れられません。」とある。残念ながらドン・O・フランクリンの原文をまだ入手出来ていないので、改めて概要を紹介することとする。
(b)Cory Hall氏の説
もう一点は、BachScholar出版が発刊しているゴルドベルク変奏曲の校訂者の説。楽譜はまだ入手出来ていないが、論文はインターネット上で公開されており、誰でも読める。
校訂者のCory Hall氏は、2005年に
「Bach‘s Goldberg Variations Demystified 」という論文を発表している。
この中で、Cory Hall氏は、
「ゴルドベルク変奏曲のフェルマータについて論じている者は、私以外にドン・O・フランクリン 氏がいるが、これを最初に着目し、テーマにしたのは私が最初だ」とまず自分自身の立場を明確にした上で、
「比較参照したテキストは、オリジナル版と1975年修正版、ペータース版(Kurt Soldan編、1937年)、ヘンレ新版、新バッハ全集である。」
「フェルマータについては、変奏曲ごとのグルーピングを指示している。(注:例えば表で見ると、フェルマータのついていない第2変奏曲からフェルマータのついている第5変奏曲までが一つのグループを形成する。)
フェルマータで区切られたグループ内の変奏曲については、各々テンポについて強い関連性があり、休まずに演奏する必要がある。」と述べている。
そして、メトロノームでその具体的なテンポについて指示をしており、この指示については「私自身の長い演奏活動、教育活動の成果である。」と語っている。
グレン・グールドの演奏にも触れながら、1975年修正版のポイントについて考察し、さらにこの変奏曲を難易度順に一覧表にするなど、その内容の是非はともかく、興味は尽きない。これについては、項を改めて紹介したい。
今回はここまで。次回は実際に楽曲の内容について。
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