第3回ゴルトベルク変奏曲の楽譜について
要約
■ゴルトベルク変奏曲の自筆譜は存在しない。クラヴィーア練習曲集第4巻
としてバッハの依頼を受けたシュミートが1741年に発行した印刷譜が全
てのルーツである。
■バッハ自身が訂正を加えたシュミート版が1975年に発見され、以後この
修正版が底本となっている。現在、使用されている代表的な楽譜は4種類
で、下記のとおり。
■新バッハ全集版。1977年、クリストフ・ヴォルフの校訂による。ヴォル
フによってかなりの変更が加えられている。校訂報告書は別刷。
■ウィーン原典版。1998年。新バッハ全集に基づくもので内容は全く同じ
だが、巻末に校訂報告書があり、日本語版も発行されている。
■ヘンレ旧版。1978年。シュミート修正版を忠実に反映させた原典版。
■ヘンレ新版。年代は不明で、新版とは明記せずいつの間にか内容を変更し
ている。新バッハ全集とほぼ同じ内容に変更しているが、その旨は書かれ
ていない。
第1回の冒頭に書いたように、ゴルトベルク変奏曲の自筆譜は現存しない。この辺りの事情をもう一度振り返っておこう。
ゴルトベルク変奏曲の楽譜出版事業は、ニュルンベルクのバルタザル•シュミートBaltthasar Schmid(1705〜49)が彫師(銅板に楽譜を彫る、いわゆる印刷用原盤を彫る役割)兼出版者だった。この印刷彫版は訂正が加えられた形跡は無く、彫版の際に手本とした原本、すなわちバッハの自筆譜も、この印刷彫版の原本も残されていない。
したがって、現在信頼すべき最もバッハの意向が反映されたテキストはシュミートが彫師のこの印刷された楽譜だけである。
なお、シュミートは第1巻として出版されたパルティータの第1番、第2番の彫師も担当している。当時ライプツィヒ大学の学生だった。
第1回でも引用したフォルケルが書いた「バッハの生涯」には、「この変奏曲の印刷本にはいくつかの重大な誤りが見られ、作者が私家版においてそれらを注意深く訂正した(「バッハ資料集〜バッハ叢書第9巻 第2部フォルケル『バッハの生涯、芸術および芸術作品について』(角倉一朗訳)よりP 352、白水社」)と記載されていたが、その私家版が、1975年、ストラスブールで発見された。
これは、間違いなくバッハ自身が修正加筆して訂正を加えたシュミート版だと判定され、しかも巻末にゴルトベルク変奏曲の低音主題による14のカノンが書き加えられており、一躍注目を浴びた。以来この修正譜がオリジナル資料として最重要視されている。
このシュミート版はこの修正版含め、現在まで19冊の現存が確認されており、それぞれが図書館等で保管されている(「ゴルトベルク変奏曲」ウィーン原典版日本語版の注p58)。
なお、2013年にイギリスの有名なザザビーズのオークションに、個人蔵のこのシュミート版が出品された。従って現在、現存するのは20冊だ。
ということで、現在使用されているゴルトベルク変奏曲の楽譜は、このシュミート修正版を底本としたものである。ここで代表的な楽譜を紹介しておこう。
(1)1975年発見のバッハ自筆の修正加筆入りシュミート版。
20冊が現存する。この1975年修正版は、現在、パリの国立図書館に保管されており、インターネット上で全て見ることができる。1990年にFuzea社からファクシミリ版で出版された。現在は絶版となっているが、まだ国内楽譜店に在庫があるようだ。ただし、残念ながらバッハの修正が全て反映されていない。これについては後ほど述べる。
この修正が反映された版は当然のことながら、1975年以降に発行されている。
(2)新バッハ全集版(Bärenreiter 5162)
この修正版を最初に適用した版が新バッハ全集。1977年、クリストフ・ヴォルフの校訂による。おそらくバッハの修正加筆譜について報告されているだろう校訂報告書は別巻で発行されており、これは残念ながら未読だが、その代わりに、この修正版をテーマにしたヴォルフの論文、「The Handexemplar of the Goldberg Variations」が彼の著作集に掲載されており(クリストフ・ヴォルフ著Bach-Eassys on His Life and Music 1991,p162)、それを参照することができる。
しかしながらこの版はヴォルフの手によってシュミート修正版にはない多くの変更が加えられている。それについては後ほど紹介しよう。
現在、この楽譜の翻訳版が2種類出版されている。高橋悠治訳による全音楽譜出版社版とベーレンライター社出版譜に中村洋子による翻訳と注釈を加えた別刷冊子を加えたもの(アカデミア・ミュージック株式会社より出版)。
(3)ウィーン原典版(UT 50159)
このウィーン原典版は新バッハ全集にもとづく、と明確に記載されている。同じくクリストフ・ヴォルフの校訂で発刊されており、楽譜はページ割り含め、新バッハ全集と全く同じである。しかもウィーン原典版は,巻末に校訂報告書が添付されているため、シュミート修正版をどのように反映させているかが、全てではないが、ほぼわかる。日本語翻訳版が発行されているので(1998年初版)、とても便利だ。
(4)ヘンレ旧版(159)
その他に原典版では、ヘンレ版が1978年に発刊されている。これは1973年、Rudolf Steglichによる校訂譜だが、Steglichは76年に他界したため、75年に発見された修正版による変更を追加出来なかった。
しかし、Paul Badura-Skoda がシュミート修正版を詳細に検討して、その成果をSteglichの版に反映させている。これは前書きで、Paul Badura-Skodaが、バッハの手書きの修正箇所がどこかを詳細に記載している。シュミート修正版をほぼ忠実に再現した、これぞ原典版とも言える楽譜。ところが残念ながらいつのまにか現在は下記のヘンレ新版に変更されている。
(5)ヘンレ新版(159)
これは表紙のデザインだけが違い、その他の装丁は1978年版と同じである。注釈等もほぼ78年版と同じだが、音などは旧版と比較するとかなり変更されている。このことは巻末の注釈には全く書かれていない。従って読者に何もメッセージがないまま78年版の内容が変えられた不親切な版と言える。その内容については改めて触れよう。
発刊年度は一切記されていないのでわからない。しかし、ヘンレ社のホームページアドレスや、アプリ(このアプリが凄い!)のロゴが記載されているので、最近の発刊だということがわかる。
前書きと注釈については、記載方法の変更があるものの、内容については旧版と全く同じだ。旧版と異なる点は、装飾音演奏法一覧表が新たに掲載されたことくらいだ。
楽譜の紙面割りの配分、ページも基本的には旧版と同じだ。しかしかなりの変更が加えられている。
変更の特徴を大雑把に整理すると、旧版はシュミート修正版に準拠していたが、この新版は新バッハ全集にほぼ準拠しているとも言える。
大きな変更点の一つは、旧版は、各変奏曲末尾に不規則に付けられたフェルマータの有無をオリジナルのシュミート版にならって付加していたが、新版では第6変奏曲を除く全ての変奏曲末尾にフェルマータを付加したことだ。この付加変更の理由についても注釈等では一切触れていない。
(6)訂正の入らないオリジナルのシュミート版
以上に加えて、バッハ訂正入りシュミート修正版ではなく、訂正の入らないオリジナルのシュミート版を参考にする必要が当然ある。これはオーストリア国立図書館、ウィーン所蔵のがインターネット上で公開されている(Bach degital HP)ので、それを参照することができる。
以上が現在入手しやすい、あるいは参照しやすいオリジナル版と原典版である。上記以外にも数多くの版が出版されているが、少なくともこれら原典版がシュミート修正版とはかなりの違いがあることを認識しておけば、これで十分だと思われる。
(7)その他の楽譜について
ただし、面白い楽譜はたくさんある。往年の名古楽器奏者、ラルフ・カークパトリックが1934年に発行した校訂版だが、演奏法、装飾法など数多くの参考資料が掲載されている。当時としては画期的かつ良心的な原典版で、もちろん現在でも参考になる記述が多い。全音楽譜出版社から翻訳版が出ていた。今でも入手可能かもしれない。
解釈版としては、面白いのはなんといっても1915年頃と思われるブゾーニ(Ferruccio Busoni)が校訂したピアノで演奏する場合のあらゆる可能性を追求した版。Breitkopf社から出版されている。
そのほかにも2台ピアノのための編曲など、面白い版は多いが、グレン・グールドが1950年代に颯爽と、鮮やかに現代のピアノでも原典版の通り演奏可能だと、実際に証明してくれるまで、扱いにくい作品として試行錯誤の時期が続いていたようだ。
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