2025年2月16日日曜日

 第2回 クラヴィーア練習曲集の出版プロジェクトについて


 ゴルトベルク変奏曲は「クラヴィーア練習曲集第4巻」として出版された。今回はこの「クラヴィーア練習曲集」シリーズについて。


要約

 ◼︎「クラヴィーア練習曲集」とは様々な種類の楽曲を集めた曲集のことを

  意味する。

 ◼︎「クラヴィーア練習曲集」は全4巻、1731年から41年にかけ出版された。

  当時一般的に使用されていたほぼ全ての鍵盤楽器を対象にして、代表的な

  ジャンルの作品を集大成したシリーズという一大プロジェクトだった。

 ◼︎ それぞれの巻の初版扉頁には「愛好家の心の慰楽のために」と書かれてい

  る。バッハが着任したライプツィヒ市は当時、ハンブルク、フランクフル

  トと並び一大国際都市で、そこで台頭してきた市民層の音楽愛好家を強く

  意識した作品集だった。 

 ◼︎ 当時のバッハは40歳を迎えたばかりの絶頂期で、一大国際都市の機能を存

  分に活用して、自らの存在感と創作力を広く世に示すためにこのプロジェ

  クトを始めた。

 



1   タイトルの由来について


「クラヴィーア練習曲集Clavier Übung」というタイトルは、現代の翻訳用例から見ると、ツェルニーの膨大な量の練習曲集をイメージするが、ショパンやスクリャビンのような香り高い芸術作品にもこの翻訳タイトルが使われている。

 バッハの場合は当然後者に属するが、「練習曲集」というタイトルはバロック時代よく使われていたタイトルで、クーナウ、スカルラッティ、テレマン、クリーガーなど多くの作曲家が自らの作品集をこのタイトルでまとめている。(イタリア語の用語で、練習曲を意味するEsserciziがルーツとなっている)

 そこには前奏曲やフーガ、アルマンド、クーラント、からパッサカリアまで様々な曲種が含まれていた。つまりあらゆる種類の鍵盤楽曲を総括して一つの曲集としてまとめるのに、都合の良いタイトルだった。

 クラヴィーアとはドイツ語で鍵盤楽器の総称のことを言うので、従って、この「クラヴィーア練習曲集」は、「様々な種類の鍵盤楽器のための楽曲集」と言い換えることができる。ここで4巻の概要を見てみよう。


 第1巻(1731年出版)は1段鍵盤のチェンバロあるいはクラヴィコードのために、前奏曲、アルマンド、クーラント、サラバンド、ジグ、メヌエット、およびその他の流行曲からなる。愛好家の心の慰楽のために。

 第2巻(35年出版)は2段鍵盤のチェンバロのためのイタリア趣味による協奏曲とフランス風序曲。愛好家の心の慰楽のために。

 第3巻(39年出版)は教理問答歌及びその他の讃美歌に基づくオルガンのための様々な前奏曲からなる。愛好家たち、とりわけこの種の労作に造詣の深い人びとにとっての心の慰楽のために。

 第4巻(41年出版)は2段鍵盤のチェンバロのためのアリアと様々なスタイルの変奏よりなる。愛好家の心の慰楽のために。

 とそれぞれ明記されていて、当時一般的に使用されていたほぼ全ての鍵盤楽器を対象した代表的なジャンルの作品集という一大プロジェクトだったのである。


2 愛好者の心の慰みのために〜台頭してきた市民層


 さて、この4巻に共通なのは、初版本の題扉に記載された次の文言である。

 「愛好家の心の慰楽のために〜Denen Liebhabern zur Gemuths 」。

 愛好者Liebhaberは、当時台頭してきた市民層の音楽愛好家のことを指しており、それに対してプロフェッショナルな職業音楽家をKennerと呼んだ。

 職業音楽家(一部才能のある貴族も含まれていた)はそれまで保護を受けていた教会と貴族達を相手に仕事をしていれば良かったが、バッハの時代のハンブルク、フランクフルト、ライプツィヒなどの大商業都市では、台頭してきた膨大な人口の市民層の音楽愛好家たちLiebhaberをターゲットとせざるを得ない時期を迎えていた。

 ただし、バッハの作品は愛好家が心の慰みとするにはあまりにも難しすぎた。愛好家のために多くの作品を書いたのはテレマン(1681〜1767)だった。


3 テレマンの「忠実な音楽の師」


 マーケティングに長けていたテレマンはいち早くこの状況を把握し、愛好家のための膨大な作品集を書いていた。一例としてテレマンは1728年にハンブルクで「忠実な音楽の師 Der getreue Musik-Meister」のタイトルで2週間に一度4ページの楽譜集を一年間計25回出版した。

 内容はまさしく市民階級の愛好家たちが様々な楽器、形態で、ソロ、アンサンブルを楽しむための楽譜集だった。もちろん、それまでテレマンはすでに千曲近くに及ぶ作品を世に出しており、そのため貴族階級を含む愛好家たちに圧倒的人気があった。

 このような定期刊行物は当時盛んで、それは市民階級の台頭を意味していた。テレマンは自伝によると、「生涯を安定した境遇で過ごしたいと思うなら、共和都市に定住すべきである、という声を聞き、そこで1712年厚遇されていたアイゼナッハ宮廷楽長から、自由都市フランクフルトへ移住した。ここには寛大な君主と有能な演奏家はいなかったが、自由な生活の快適さがあった。」(注「テレマン」、カール・グレーべ著/服部幸三他訳、音楽之友社p176)

 テレマンはさらに1721年ハンブルクへと転職しここで上記楽譜集の連載出版をした。寛大なる君主のために働くことよりはさらに「自由な生活の快適さ」の中で音楽活動をするためである。


4 バッハの時代のライプツィヒ


 バッハも同様に、ケーテン宮廷楽長から自由都市ライプツィヒ市に1723年、転職した。前任者のライプツィヒ市音楽監督兼カントールだった故クーナウの後任としてだった。当初テレマンが第一候補だったが、ハンブルク市が給料を増額してこれを拒絶させたため、バッハが後任と決定した。


 当時ライプツィヒは当時人口約3万の商業・文化の一大中心都市で、商業の面では複数の商業ルートが交差する商業の中心地であり、年3回の見本市が開催され、開催時にはヨーロッパ全土から商人をはじめとする多くの人々がこの都市に集まった。

 文化の面では優秀な学生が学び、優れた研究者を輩出しているドイツ有数の大学、ライプツィヒ大学を有する学問の都市だった。大学の存在が書籍の流通を盛んにし、学術書を中心に多くの書物が印刷販売され、書籍の街としても有名だった。楽譜の見本市も1594年から開かれていた。

 市民階級は建築や美術に対する見識が深く、総じて知的レベルは高かった。バッハが1728年から定期演奏会を主催するツィンマーマンのカフェーハウスもあった。ドイツ語圏ではウィーンに次いで開店したカフェーハウスで、この都市の経済的、文化的繁栄の成果だった。


 バッハは若い頃からライプツィヒはもちろん、ドレスデンのような大都市をオルガンの演奏や鑑定を通じて訪れる機会は幾度もあった。しかしそこで生活する機会はライプツィヒが初めてだった。

 バッハはライプツィヒ市の公務員として赴任し、かなり恵まれた待遇ではあったが、その音楽活動の内容について市当局との軋轢は相当大きかった。

 だが、それまでの田舎の宮廷楽長と違って、テレマンが言った通り「ここには寛大な君主と有能な演奏家はいなかったが、自由な生活の快適さがあり」、大都市ゆえの自由な生活をエンジョイしていたのに違いない。また当然テレマンの自由闊達な仕事ぶりもよく知っていた。


5 ライプツィヒでのバッハの音楽活動


 バッハのここでの日常の音楽活動はどうだったのか。まず、職務として携わった聖トーマス教会での毎週日曜日の礼拝には約2千人もの市民が集まった。その中で市民はバッハのオルガンソロやカンタータの演奏に耳を傾けた。

 年3回の見本市ではヨーロッパ中から集まった大勢の人々を対象に、当時のザクセン地域での最大の楽器があった聖パウロ教会(3段鍵盤と53のストップを有するライプツィヒ大学の教会。バッハは1717年にこのオルガンの鑑定を行なっている)では、バッハのオルガンリサイタルが開催されたのはほぼ間違いがない。バッハの名技は絶賛されその名声はヨーロッパ全土に広がったことだろう。

 1728年からは市中のカフェーハウスでバッハ指揮によるコレギウムムジクスの演奏会が毎週定期的に開催されるようになった。このような市井での演奏音楽活動を通じて、バッハは音楽家としてかなりの手応えを感じたことは容易に想像できる。

 大都市ライプツィヒでの生活に慣れ親しみはじめた1725年ごろから、バッハはこの豊かな国際都市機能を活用して自らをPRしない手はない、と考えたのに違いない。40歳の絶頂期を迎えていたバッハは優れた演奏家と作曲家、そしてオルガン鑑定士としてかなりの自信があり、その存在感と創作力を広く世に示すために、自作を出版する計画を立てたのはこのような背景があったのだろう。「クラヴィーア練習曲集」を出版した大きな理由と背景の一つはここにあった。

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