2025年2月17日月曜日

ゴルトベルク変奏曲を聴く人のために

 はじめに

 このブログは、下記の日程で開催されるゴルトベルク変奏曲の演奏会に来場される方々のために、鑑賞の手引きとして書き始めたものです。出来るだけわかりやすく作曲者と作品について紹介します。 

 第10回 第25変奏曲から最後まで を公開しました。第9回に引き続き掲載してありますので、ご覧ください。(4月21日)

 第9回 第16変奏曲から第24変奏曲まで を公開しました。(4月18日)

                   →ここをクリックしてください。

 第8回 第8変奏曲から第15変奏曲まで を公開しました。第7回記事に引き続き掲載してありますので、ご覧ください。(4月17日)

 第7回 第7変奏曲 を公開しました。→ここをクリックしてください

(4月16日)

 第6回第1変奏曲から第6変奏曲まで を公開しました。第5回記事に引き続き掲載してありますので、ご覧ください。(4月12日)

 第5回変奏曲の構造を公開しましたここをクリックしてください。   (4月8日) 

 第4回を公開しました。第3回の記事に引き続き掲載してありますので、ごください。(3月30日)

 第3回を公開しました。→ここをクリックしてください、

 第2回を公開しました。第1回の記事に引き続き掲載してありますので、ご覧ください。(3月17日)

演奏会チラシ


【演奏会情報】

 大宮 理 チェンバロリサイタル

演奏曲目 バッハ:ゴルトベルク変奏曲

日時 2025年4月28日(月)

   開場18:30  開演19:00  終演21:00(予定、休憩1回含む)

会場 クリエイティブスタジオ 

   札幌市中央区北1西1 札幌市民交流プラザ3F

   下記アドレスにてチラシダウンロードできます。

   https://www.sapporo-community-plaza.jp/event.php?num=4208

   

チケット取扱 道新プレイガイド ☎︎0570-00-3871

       札幌市民交流プラザチケットセンター 

       全席自由 2,000円



第1回 ゴルトベルク変奏曲の出版

 連載にあたり、各回ごとに、始めにサマリー、要約を記載します。すでにご存知の方は要約以下は読み飛ばしてください。


要約 

 ▪️ゴルトベルク変奏曲は1741年に「クラヴィーア練習曲集第4巻」として

   出版された。

 ▪️名前の由来は1802年に書かれたフォルケルのバッハ評伝によるもの。

 ▪️評伝によると「不眠症のカイザーリンク伯爵が、伯爵お抱えのチェンバリ

   スト、ゴルトベルクのために、眠られぬ夜に気分が明るくなるような穏や

   かで快活な作品を書いて欲しい、とバッハに依頼した。」

 ▪️「バッハはこの希望に相応しいのは変奏曲と確信し、この変奏曲が生まれ

   た。」と書かれている。

    ▪️ただし、現在では下記の理由によりこの記述は疑わしいと言われている。

   1 印刷譜に伯爵への献呈の記載が無いこと

   2 ゴルトベルクがこのとき14才とまだ少年だったこと

 


 作曲者バッハの紹介はあらためてすることにして、まず作品の成立と名前の由来について述べよう。

 バッハはこの作品を、1741年にニュルンベルクの出版社、バルタザル•シュミートから出版した。ただし、単独の作品としてではなく、1731年からシリーズで出版してきた「クラヴィーア練習曲集」の最終巻、第4巻として出版した。その出版譜の表紙には次のように記載されている。

「クラヴィーア練習曲、2段鍵盤付きクラヴィツィンバルのためのアリアと種々の変奏より成る。愛好家の心の慰楽のために、ポーランド国王兼ザクセン選帝侯宮廷作曲家兼楽長、並びにライプツィヒ音楽隊監督、ヨハン•ゼバスチャン•バッハこれを完成す。ニュルンベルクのバルタザル•シュミートより出版」


初版印刷譜表紙
                 Clavier Ubung
             bestehend 
             in einer 
             ARIA 
   mit verschiedenen Veraenderungen 
      vors Clavicimbal 
      mit 2 Manualen. 
       Denen  Liebhabern zur Gemütes -
             Ergetzung verfertiget  von
                Johann Sebastian Bach

         Konigl, Pohl. und Churfl. Saechs. Hoff-

         Compositeur, Capellmeister u. Directore

     Chori Musici in Leipzig.

    Nurnberg in Verlegung   

      Balthasar Schmids.

 



出版社のシュミートとは?


 バッハの自筆の楽譜は実に美しく、素晴らしいが、残念ながらこの作品の自筆譜は残っていない。

 ちなみに、シュミート(Balthasar Schmid(1705〜49))は、ニュルンベルクの彫師(銅板に楽譜を彫る、いわゆる印刷用原版を彫る役割)兼出版者。かつ音楽家で、教会オルガニストでもあった。バッハの弟子だったとも言われている。

 当時、バッハが在住していたライプツィヒは一大商業都市であったにも関わらず、楽譜印刷業は盛んではなかった。この世紀後半に楽譜出版社として世界的に有名になるブライトコプフ社はまだ科学分野や聖書等の書籍印刷などが主で、楽譜印刷にようやく興味を持ち始めていた時期だった。バッハがわざわざニュルンベルクの出版社に依頼したのはライプツィヒにいい印刷業者がいなかったためでもある。

 この彫版の際に手本とした原本、すなわちバッハの自筆譜も、この印刷彫版の原本も残されていない。

 したがって、現在信頼すべき最もバッハの意向が反映されたテキストはシュミートが彫師の、この印刷された楽譜だけである。これについては後ほど詳細に触れよう。ちなみに、この出版譜はインターネット上の「国際楽譜ライブラリープロジェクト、ペトルッチ楽譜ライブラリー」で見ることができる。

 


ゴルトベルク変奏曲の名前の由来は?〜フォルケルのバッハ評伝


 さて、このタイトルにもある通り、出版譜には「ゴルトベルク」という名称は一切出てこない。

 この作品が「ゴルトベルク変奏曲」と呼ばれようになったのは、19世紀に入ってからだ。その由縁は、1802年に出版されたフォルケル(ヨハン・ニコラウス・フォルケル、 Johann Nikolaus Forkel, 1749〜1818、ドイツの音楽学者)の著書、『バッハの生涯、芸術および芸術作品について、Ueber Johann Sebastian Bachs Leben, Kunst und Kunstwerke, Leipzig、1802』の中にある。

 この評伝はバッハの息子達、特にカール・フィリップ・エマニュエル・バッハから直接得た情報を基に書かれており、資料的にはかなり貴重と言われている。世界初のバッハの評伝である。

 この著書で、フォルケルはこの作品の成立の由来を次のとおり記している。

 該当箇所を要約してみよう。


「ザクセン選帝侯宮廷駐在の前ロシア大使、カイザーリンク伯爵は、バッハに、穏やかでいくらか快活な性格をもち、眠れぬ夜に気分が晴れるようなクラヴィーア曲を私のお抱えチェンバロ奏者のゴルトベルクのために書いて欲しい、と申し出た。バッハは依頼に答え、素晴らしい変奏曲を献呈し、伯爵はこれを私の変奏曲と呼び、眠れない夜が来るとゴルトベルクに弾かせてこれを楽しんだ。伯爵は謝礼にルイ金貨が100枚つまった金杯をバッハに贈った。」

(「バッハ資料集〜バッハ叢書第9巻 第2部フォルケル『バッハの生涯、芸術および芸術作品について』(角倉一朗訳)よりP 351、白水社」)

 

 この由来の真偽については、疑問が残る、というのが一般的な解釈だ。その理由は下記の2点に整理できる。

1 カイザーリンク伯爵の依頼であれば、18世紀の習慣として出版譜にカイ 

  ザーリンク伯爵への献呈の記述があるはずだが、それが一切ないこと。

2 伯爵お抱えチェンバロ奏者ゴルトベルク(1727〜56)は当時まだ14歳の

  少年でこの作品は難しすぎること。少年が素晴らしい才能の持ち主で、

  仮にこの変奏曲を弾きこなすことが出来ても、バッハがこの14才の少年

  チェンバリストを想定して作曲した作品だとは考えにくい。


 ゆえに、この作品は伯爵の依頼ではなく、クラヴィーア練習曲集シリーズのプロジェクトとしてあらかじめ計画されていたと見るのが現在の一般的な解釈である。ただし、献呈の記述については、印刷譜に記されていなくとも、献呈された自筆譜に付けられていたという可能性もある、という指摘もある(バッハとの対話、小林義武、小学館、p338「ゴルトベルク変奏曲、作品名の由来について」)。


カイザーリンク伯爵


 

カイザーリンク伯爵
ウィキペデアより転載
  フォルケルのバッハ伝に登場する人物、カイザー
   リンク伯爵(ヘルマン•カール•フォン•カイザーリン
   クHermann Carl Graf von Keyserling,1696〜1764)
 はバッハの熱烈なパトロンでもあり、様々な場面で
 バッハを支援している。1741年に帝国伯爵に叙階、
 1733〜45年ロシア公使としてドレスデンに滞在。
 46〜49 年ベルリン公使、49〜52年にロシア公使
 として再びドレスデンに滞在。 
 特に1747年にバッハがベルリンとポツダムを訪問 
 し、フリードリヒ大王に謁見する機会を作ったのも
 カイザーリンク伯爵だと言われている。


チェンバロ奏者、ゴルトベルク 


 さて、ここで登場したゴルトベルクとは何者か。

 『ヨハン•ゴットリープ•ゴルトベルク(Johan Gottlieb Goldberg,1727年ダンツィヒ生〜56年ドレスデン没)。おそらく1737年、当時ザクセン宮廷駐在のロシア大使だったカイザーリンクがゴルトベルク少年の才能を認め、その後バッハ一家の弟子になったといわれている。

 ドレスデンでバッハの息子、ウィルヘルム•フリーデマン•バッハの弟子、ライプツィヒでバッハの弟子となったともいわれており、この辺の時期はよくわかっていない。

 この変奏曲については、カイザーリンクの依頼がなかったにせよ、バッハは1741年の出版譜をカイザーリンクに贈り(バッハは41年にドレスデンを訪問している)、返礼として相当な報酬を受け取った可能性はある。

 また、様々な歴史的事実から判断するとゴルトベルク少年はこの変奏曲を弾きこなせるほどの驚異的腕前だったことは明らかだ。

 作曲の才能についてはフォルケルの著書によるとゴルトベルクは非常に優秀なクラヴィーア奏者だが作曲に対する特別な素質はなかった、と書かれている。だが、独創的ないくつかの作品が残されていて、そこには豊かな才能があったことを物語っているが、残念ながらそれを確信させるほど多くの作品が残されてはいない。ゴルトベルクは若くして肺結核で没した。』

 (ニューグローヴ世界音楽大事典日本語版第7巻「ゴルトベルク」の項より要約。フォルケルのゴルトベルクへの記述は前掲書p 295、343、351にある)

 

 上記の通り、ゴルトベルク少年はバッハの弟子で、かなり有能だったらしい。ある書籍では、ゴルトベルク少年がこの長大な変奏曲の初演者と言っているが、その真偽の程はわからない。

 フォルケルのゴルトベルク変奏曲の誕生秘話の真偽については疑問が残るにせよ、バッハは出版された変奏曲をすぐに当時ドレスデンに居住していたカイザーリンク伯爵に届けたのに違いない。その時に、ひょっとして伯爵への献呈入りの自筆譜も一緒に贈呈したのかもしれない。

 伯爵はこれを嬉々として受け取り、謝礼にルイ金貨が100枚つまった金杯をバッハに贈った可能性は否定できない。

 

 ゴルトベルク少年が、伝承の通りかなりの名手で、この変奏曲が演奏でき、カイザーリンク伯爵がその演奏を実際に聴いて楽しんでいたのはおそらく間違いないだろう。そのため、このまことしやかな逸話が創られたとしても不思議はないのかもしれない。

 なお、ゴルトベルクの作品のいくつかはインターネット上の「国際楽譜ライブラリープロジェクト、ペトルッチ楽譜ライブラリー」で見ることができる。

 フォルケルの著作のお陰で、このチェンバロ奏者の名前は「ゴルトベルク変奏曲」として、永遠に人々に記憶されることになった。


 次回はゴルトベルク変奏曲作曲の背景について。

2025年2月16日日曜日

 第2回 クラヴィーア練習曲集の出版プロジェクトについて


 ゴルトベルク変奏曲は「クラヴィーア練習曲集第4巻」として出版された。今回はこの「クラヴィーア練習曲集」シリーズについて。


要約

 ◼︎「クラヴィーア練習曲集」とは様々な種類の楽曲を集めた曲集のことを

  意味する。

 ◼︎「クラヴィーア練習曲集」は全4巻、1731年から41年にかけ出版された。

  当時一般的に使用されていたほぼ全ての鍵盤楽器を対象にして、代表的な

  ジャンルの作品を集大成したシリーズという一大プロジェクトだった。

 ◼︎ それぞれの巻の初版扉頁には「愛好家の心の慰楽のために」と書かれてい

  る。バッハが着任したライプツィヒ市は当時、ハンブルク、フランクフル

  トと並び一大国際都市で、そこで台頭してきた市民層の音楽愛好家を強く

  意識した作品集だった。 

 ◼︎ 当時のバッハは40歳を迎えたばかりの絶頂期で、一大国際都市の機能を存

  分に活用して、自らの存在感と創作力を広く世に示すためにこのプロジェ

  クトを始めた。

 



1   タイトルの由来について


「クラヴィーア練習曲集Clavier Übung」というタイトルは、現代の翻訳用例から見ると、ツェルニーの膨大な量の練習曲集をイメージするが、ショパンやスクリャビンのような香り高い芸術作品にもこの翻訳タイトルが使われている。

 バッハの場合は当然後者に属するが、「練習曲集」というタイトルはバロック時代よく使われていたタイトルで、クーナウ、スカルラッティ、テレマン、クリーガーなど多くの作曲家が自らの作品集をこのタイトルでまとめている。(イタリア語の用語で、練習曲を意味するEsserciziがルーツとなっている)

 そこには前奏曲やフーガ、アルマンド、クーラント、からパッサカリアまで様々な曲種が含まれていた。つまりあらゆる種類の鍵盤楽曲を総括して一つの曲集としてまとめるのに、都合の良いタイトルだった。

 クラヴィーアとはドイツ語で鍵盤楽器の総称のことを言うので、従って、この「クラヴィーア練習曲集」は、「様々な種類の鍵盤楽器のための楽曲集」と言い換えることができる。ここで4巻の概要を見てみよう。


 第1巻(1731年出版)は1段鍵盤のチェンバロあるいはクラヴィコードのために、前奏曲、アルマンド、クーラント、サラバンド、ジグ、メヌエット、およびその他の流行曲からなる。愛好家の心の慰楽のために。

 第2巻(35年出版)は2段鍵盤のチェンバロのためのイタリア趣味による協奏曲とフランス風序曲。愛好家の心の慰楽のために。

 第3巻(39年出版)は教理問答歌及びその他の讃美歌に基づくオルガンのための様々な前奏曲からなる。愛好家たち、とりわけこの種の労作に造詣の深い人びとにとっての心の慰楽のために。

 第4巻(41年出版)は2段鍵盤のチェンバロのためのアリアと様々なスタイルの変奏よりなる。愛好家の心の慰楽のために。

 とそれぞれ明記されていて、当時一般的に使用されていたほぼ全ての鍵盤楽器を対象した代表的なジャンルの作品集という一大プロジェクトだったのである。


2 愛好者の心の慰みのために〜台頭してきた市民層


 さて、この4巻に共通なのは、初版本の題扉に記載された次の文言である。

 「愛好家の心の慰楽のために〜Denen Liebhabern zur Gemuths 」。

 愛好者Liebhaberは、当時台頭してきた市民層の音楽愛好家のことを指しており、それに対してプロフェッショナルな職業音楽家をKennerと呼んだ。

 職業音楽家(一部才能のある貴族も含まれていた)はそれまで保護を受けていた教会と貴族達を相手に仕事をしていれば良かったが、バッハの時代のハンブルク、フランクフルト、ライプツィヒなどの大商業都市では、台頭してきた膨大な人口の市民層の音楽愛好家たちLiebhaberをターゲットとせざるを得ない時期を迎えていた。

 ただし、バッハの作品は愛好家が心の慰みとするにはあまりにも難しすぎた。愛好家のために多くの作品を書いたのはテレマン(1681〜1767)だった。


3 テレマンの「忠実な音楽の師」


 マーケティングに長けていたテレマンはいち早くこの状況を把握し、愛好家のための膨大な作品集を書いていた。一例としてテレマンは1728年にハンブルクで「忠実な音楽の師 Der getreue Musik-Meister」のタイトルで2週間に一度4ページの楽譜集を一年間計25回出版した。

 内容はまさしく市民階級の愛好家たちが様々な楽器、形態で、ソロ、アンサンブルを楽しむための楽譜集だった。もちろん、それまでテレマンはすでに千曲近くに及ぶ作品を世に出しており、そのため貴族階級を含む愛好家たちに圧倒的人気があった。

 このような定期刊行物は当時盛んで、それは市民階級の台頭を意味していた。テレマンは自伝によると、「生涯を安定した境遇で過ごしたいと思うなら、共和都市に定住すべきである、という声を聞き、そこで1712年厚遇されていたアイゼナッハ宮廷楽長から、自由都市フランクフルトへ移住した。ここには寛大な君主と有能な演奏家はいなかったが、自由な生活の快適さがあった。」(注「テレマン」、カール・グレーべ著/服部幸三他訳、音楽之友社p176)

 テレマンはさらに1721年ハンブルクへと転職しここで上記楽譜集の連載出版をした。寛大なる君主のために働くことよりはさらに「自由な生活の快適さ」の中で音楽活動をするためである。


4 バッハの時代のライプツィヒ


 バッハも同様に、ケーテン宮廷楽長から自由都市ライプツィヒ市に1723年、転職した。前任者のライプツィヒ市音楽監督兼カントールだった故クーナウの後任としてだった。当初テレマンが第一候補だったが、ハンブルク市が給料を増額してこれを拒絶させたため、バッハが後任と決定した。


 当時ライプツィヒは当時人口約3万の商業・文化の一大中心都市で、商業の面では複数の商業ルートが交差する商業の中心地であり、年3回の見本市が開催され、開催時にはヨーロッパ全土から商人をはじめとする多くの人々がこの都市に集まった。

 文化の面では優秀な学生が学び、優れた研究者を輩出しているドイツ有数の大学、ライプツィヒ大学を有する学問の都市だった。大学の存在が書籍の流通を盛んにし、学術書を中心に多くの書物が印刷販売され、書籍の街としても有名だった。楽譜の見本市も1594年から開かれていた。

 市民階級は建築や美術に対する見識が深く、総じて知的レベルは高かった。バッハが1728年から定期演奏会を主催するツィンマーマンのカフェーハウスもあった。ドイツ語圏ではウィーンに次いで開店したカフェーハウスで、この都市の経済的、文化的繁栄の成果だった。


 バッハは若い頃からライプツィヒはもちろん、ドレスデンのような大都市をオルガンの演奏や鑑定を通じて訪れる機会は幾度もあった。しかしそこで生活する機会はライプツィヒが初めてだった。

 バッハはライプツィヒ市の公務員として赴任し、かなり恵まれた待遇ではあったが、その音楽活動の内容について市当局との軋轢は相当大きかった。

 だが、それまでの田舎の宮廷楽長と違って、テレマンが言った通り「ここには寛大な君主と有能な演奏家はいなかったが、自由な生活の快適さがあり」、大都市ゆえの自由な生活をエンジョイしていたのに違いない。また当然テレマンの自由闊達な仕事ぶりもよく知っていた。


5 ライプツィヒでのバッハの音楽活動


 バッハのここでの日常の音楽活動はどうだったのか。まず、職務として携わった聖トーマス教会での毎週日曜日の礼拝には約2千人もの市民が集まった。その中で市民はバッハのオルガンソロやカンタータの演奏に耳を傾けた。

 年3回の見本市ではヨーロッパ中から集まった大勢の人々を対象に、当時のザクセン地域での最大の楽器があった聖パウロ教会(3段鍵盤と53のストップを有するライプツィヒ大学の教会。バッハは1717年にこのオルガンの鑑定を行なっている)では、バッハのオルガンリサイタルが開催されたのはほぼ間違いがない。バッハの名技は絶賛されその名声はヨーロッパ全土に広がったことだろう。

 1728年からは市中のカフェーハウスでバッハ指揮によるコレギウムムジクスの演奏会が毎週定期的に開催されるようになった。このような市井での演奏音楽活動を通じて、バッハは音楽家としてかなりの手応えを感じたことは容易に想像できる。

 大都市ライプツィヒでの生活に慣れ親しみはじめた1725年ごろから、バッハはこの豊かな国際都市機能を活用して自らをPRしない手はない、と考えたのに違いない。40歳の絶頂期を迎えていたバッハは優れた演奏家と作曲家、そしてオルガン鑑定士としてかなりの自信があり、その存在感と創作力を広く世に示すために、自作を出版する計画を立てたのはこのような背景があったのだろう。「クラヴィーア練習曲集」を出版した大きな理由と背景の一つはここにあった。