2025年2月17日月曜日

ゴルトベルク変奏曲を聴く人のために

 はじめに

 このブログは、下記の日程で開催されるゴルトベルク変奏曲の演奏会に来場される方々のために、鑑賞の手引きとして書き始めたものです。出来るだけわかりやすく作曲者と作品について紹介します。             

 なお、今まで「音楽の落ち穂拾い」に掲載していたゴルトベルク変奏曲についての記述は、項を改めて、ここに連載をしていきます。

演奏会チラシ


【演奏会情報】

 大宮 理 チェンバロリサイタル

演奏曲目 バッハ:ゴルトベルク変奏曲

日時 2025年4月28日(月)

   開場18:30  開演19:00  終演21:00(予定、休憩1回含む)

会場 クリエイティブスタジオ 

   札幌市中央区北1西1 札幌市民交流プラザ3F

   下記アドレスにてチラシダウンロードできます。

   https://www.sapporo-community-plaza.jp/event.php?num=4208

   

チケット取扱 道新プレイガイド ☎︎0570-00-3871

       札幌市民交流プラザチケットセンター 

       全席自由 2,000円



第1回 ゴルトベルク変奏曲の出版

 連載にあたり、各回ごとに、始めにサマリー、要約を記載します。すでにご存知の方は要約以下は読み飛ばしてください。


要約 

 ▪️ゴルトベルク変奏曲は1741年に「クラヴィーア練習曲集第4巻」として

   出版された。

 ▪️名前の由来は1802年に書かれたフォルケルのバッハ評伝によるもの。

 ▪️評伝によると「不眠症のカイザーリンク伯爵が、伯爵お抱えのチェンバリ

   スト、ゴルトベルクのために、眠られぬ夜に気分が明るくなるような穏や

   かで快活な作品を書いて欲しい、とバッハに依頼した。」

 ▪️「バッハはこの希望に相応しいのは変奏曲と確信し、この変奏曲が生まれ

   た。」と書かれている。

    ▪️ただし、現在では下記の理由によりこの記述は疑わしいと言われている。

   1 印刷譜に伯爵への献呈の記載が無いこと

   2 ゴルトベルクがこのとき14才とまだ少年だったこと

 


 作曲者バッハの紹介はあらためてすることにして、まず作品の成立と名前の由来について述べよう。

 バッハはこの作品を、1741年にニュルンベルクの出版社、バルタザル•シュミートから出版した。ただし、単独の作品としてではなく、1731年からシリーズで出版してきた「クラヴィーア練習曲集」の最終巻、第4巻として出版した。その出版譜の表紙には次のように記載されている。

「クラヴィーア練習曲、2段鍵盤付きクラヴィツィンバルのためのアリアと種々の変奏より成る。愛好家の心の慰楽のために、ポーランド国王兼ザクセン選帝侯宮廷作曲家兼楽長、並びにライプツィヒ音楽隊監督、ヨハン•ゼバスチャン•バッハこれを完成す。ニュルンベルクのバルタザル•シュミートより出版」


初版印刷譜表紙
                 Clavier Ubung
             bestehend 
             in einer 
             ARIA 
   mit verschiedenen Veraenderungen 
      vors Clavicimbal 
      mit 2 Manualen. 
       Denen  Liebhabern zur Gemütes -
             Ergetzung verfertiget  von
                Johann Sebastian Bach

         Konigl, Pohl. und Churfl. Saechs. Hoff-

         Compositeur, Capellmeister u. Directore

     Chori Musici in Leipzig.

    Nurnberg in Verlegung   

      Balthasar Schmids.

 



出版社のシュミートとは?


 バッハの自筆の楽譜は実に美しく、素晴らしいが、残念ながらこの作品の自筆譜は残っていない。

 ちなみに、シュミート(Balthasar Schmid(1705〜49))は、ニュルンベルクの彫師(銅板に楽譜を彫る、いわゆる印刷用原版を彫る役割)兼出版者。かつ音楽家で、教会オルガニストでもあった。バッハの弟子だったとも言われている。

 当時、バッハが在住していたライプツィヒは一大商業都市であったにも関わらず、楽譜印刷業は盛んではなかった。この世紀後半に楽譜出版社として世界的に有名になるブライトコプフ社はまだ科学分野や聖書等の書籍印刷などが主で、楽譜印刷にようやく興味を持ち始めていた時期だった。バッハがわざわざニュルンベルクの出版社に依頼したのはライプツィヒにいい印刷業者がいなかったためでもある。

 この彫版の際に手本とした原本、すなわちバッハの自筆譜も、この印刷彫版の原本も残されていない。

 したがって、現在信頼すべき最もバッハの意向が反映されたテキストはシュミートが彫師の、この印刷された楽譜だけである。これについては後ほど詳細に触れよう。ちなみに、この出版譜はインターネット上の「国際楽譜ライブラリープロジェクト、ペトルッチ楽譜ライブラリー」で見ることができる。

 


ゴルトベルク変奏曲の名前の由来は?〜フォルケルのバッハ評伝


 さて、このタイトルにもある通り、出版譜には「ゴルトベルク」という名称は一切出てこない。

 この作品が「ゴルトベルク変奏曲」と呼ばれようになったのは、19世紀に入ってからだ。その由縁は、1802年に出版されたフォルケル(ヨハン・ニコラウス・フォルケル、 Johann Nikolaus Forkel, 1749〜1818、ドイツの音楽学者)の著書、『バッハの生涯、芸術および芸術作品について、Ueber Johann Sebastian Bachs Leben, Kunst und Kunstwerke, Leipzig、1802』の中にある。

 この評伝はバッハの息子達、特にカール・フィリップ・エマニュエル・バッハから直接得た情報を基に書かれており、資料的にはかなり貴重と言われている。世界初のバッハの評伝である。

 この著書で、フォルケルはこの作品の成立の由来を次のとおり記している。

 該当箇所を要約してみよう。


「ザクセン選帝侯宮廷駐在の前ロシア大使、カイザーリンク伯爵は、バッハに、穏やかでいくらか快活な性格をもち、眠れぬ夜に気分が晴れるようなクラヴィーア曲を私のお抱えチェンバロ奏者のゴルトベルクのために書いて欲しい、と申し出た。バッハは依頼に答え、素晴らしい変奏曲を献呈し、伯爵はこれを私の変奏曲と呼び、眠れない夜が来るとゴルトベルクに弾かせてこれを楽しんだ。伯爵は謝礼にルイ金貨が100枚つまった金杯をバッハに贈った。」

(「バッハ資料集〜バッハ叢書第9巻 第2部フォルケル『バッハの生涯、芸術および芸術作品について』(角倉一朗訳)よりP 351、白水社」)

 

 この由来の真偽については、疑問が残る、というのが一般的な解釈だ。その理由は下記の2点に整理できる。

1 カイザーリンク伯爵の依頼であれば、18世紀の習慣として出版譜にカイ 

  ザーリンク伯爵への献呈の記述があるはずだが、それが一切ないこと。

2 伯爵お抱えチェンバロ奏者ゴルトベルク(1727〜56)は当時まだ14歳の

  少年でこの作品は難しすぎること。少年が素晴らしい才能の持ち主で、

  仮にこの変奏曲を弾きこなすことが出来ても、バッハがこの14才の少年

  チェンバリストを想定して作曲した作品だとは考えにくい。


 ゆえに、この作品は伯爵の依頼ではなく、クラヴィーア練習曲集シリーズのプロジェクトとしてあらかじめ計画されていたと見るのが現在の一般的な解釈である。ただし、献呈の記述については、印刷譜に記されていなくとも、献呈された自筆譜に付けられていたという可能性もある、という指摘もある(バッハとの対話、小林義武、小学館、p338「ゴルトベルク変奏曲、作品名の由来について」)。


カイザーリンク伯爵


 

カイザーリンク伯爵
ウィキペデアより転載
  フォルケルのバッハ伝に登場する人物、カイザー
   リンク伯爵(ヘルマン•カール•フォン•カイザーリン
   クHermann Carl Graf von Keyserling,1696〜1764)
 はバッハの熱烈なパトロンでもあり、様々な場面で
 バッハを支援している。1741年に帝国伯爵に叙階、
 1733〜45年ロシア公使としてドレスデンに滞在。
 46〜49 年ベルリン公使、49〜52年にロシア公使
 として再びドレスデンに滞在。 
 特に1747年にバッハがベルリンとポツダムを訪問 
 し、フリードリヒ大王に謁見する機会を作ったのも
 カイザーリンク伯爵だと言われている。


チェンバロ奏者、ゴルトベルク 


 さて、ここで登場したゴルトベルクとは何者か。

 『ヨハン•ゴットリープ•ゴルトベルク(Johan Gottlieb Goldberg,1727年ダンツィヒ生〜56年ドレスデン没)。おそらく1737年、当時ザクセン宮廷駐在のロシア大使だったカイザーリンクがゴルトベルク少年の才能を認め、その後バッハ一家の弟子になったといわれている。

 ドレスデンでバッハの息子、ウィルヘルム•フリーデマン•バッハの弟子、ライプツィヒでバッハの弟子となったともいわれており、この辺の時期はよくわかっていない。

 この変奏曲については、カイザーリンクの依頼がなかったにせよ、バッハは1741年の出版譜をカイザーリンクに贈り(バッハは41年にドレスデンを訪問している)、返礼として相当な報酬を受け取った可能性はある。

 また、様々な歴史的事実から判断するとゴルトベルク少年はこの変奏曲を弾きこなせるほどの驚異的腕前だったことは明らかだ。

 作曲の才能についてはフォルケルの著書によるとゴルトベルクは非常に優秀なクラヴィーア奏者だが作曲に対する特別な素質はなかった、と書かれている。だが、独創的ないくつかの作品が残されていて、そこには豊かな才能があったことを物語っているが、残念ながらそれを確信させるほど多くの作品が残されてはいない。ゴルトベルクは若くして肺結核で没した。』

 (ニューグローヴ世界音楽大事典日本語版第7巻「ゴルトベルク」の項より要約。フォルケルのゴルトベルクへの記述は前掲書p 295、343、351にある)

 

 上記の通り、ゴルトベルク少年はバッハの弟子で、かなり有能だったらしい。ある書籍では、ゴルトベルク少年がこの長大な変奏曲の初演者と言っているが、その真偽の程はわからない。

 フォルケルのゴルトベルク変奏曲の誕生秘話の真偽については疑問が残るにせよ、バッハは出版された変奏曲をすぐに当時ドレスデンに居住していたカイザーリンク伯爵に届けたのに違いない。その時に、ひょっとして伯爵への献呈入りの自筆譜も一緒に贈呈したのかもしれない。

 伯爵はこれを嬉々として受け取り、謝礼にルイ金貨が100枚つまった金杯をバッハに贈った可能性は否定できない。

 

 ゴルトベルク少年が、伝承の通りかなりの名手で、この変奏曲が演奏でき、カイザーリンク伯爵がその演奏を実際に聴いて楽しんでいたのはおそらく間違いないだろう。そのため、このまことしやかな逸話が創られたとしても不思議はないのかもしれない。

 なお、ゴルトベルクの作品のいくつかはインターネット上の「国際楽譜ライブラリープロジェクト、ペトルッチ楽譜ライブラリー」で見ることができる。

 フォルケルの著作のお陰で、このチェンバロ奏者の名前は「ゴルトベルク変奏曲」として、永遠に人々に記憶されることになった。


 次回はゴルトベルク変奏曲作曲の背景について。